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【2L翻译】2015.08.31(出山家大哥的采访)芸能界からの転身は、異国の地でのカラオ [复制链接]

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发表于 2017-2-7 19:21:52 |显示全部楼层

25年間芸能界に携わってきた男が、海を渡りベトナムでカラオケ店を営んでいる。メンバーズ・ラウンジ「フォルテ」を経営する、出山謙一だ。歌手の夢破れて芸能マネージャーの世界に入り、バブル絶頂期には芸能事務所社長にまでなった男が、その波乱万丈の半生を振り返った。

ベトナム・ホーチミン市のカラオケ店


ベトナム・ホーチミン市でカラオケ店を営む出山氏

私は2006年1月からベトナム・ホーチミン市でカラオケ店を営んでいます。ベトナムのカラオケは日本のカラオケボックスとは異なり、水商売に分類されます。ご来店いただいたお客様を女性従業員が接客し、お酒を飲みながら歌って騒いで盛り上がっていただくというものです。

私は44歳でベトナムに移住したのですが、そのきっかけは同じくベトナム・ホーチミン市でレストランを経営していた従兄でした。その従兄は事あるごとに「日本食材を持ってくるなら、飛行機代を出してやるから遊びに来い」と声をかけてくれる、私にとっての兄貴分のような方でした。従兄はレストランに加えカラオケ店も経営していたのですが、ある日その店の店長が辞めることになったので代わりにやってみないかと声をかけられました。私はこの話を聞いて面白そうだと思い、深く考えず軽い気持ちでベトナム行きを決めました。最初は「2,3か月海外に住んでみるのも良いかな」という程度の考えだったのです。

しかし実際にベトナムに住んでみると、2か月の滞在が3か月になり、3か月が半年になりズルズルと滞在期間が延びていきました。そして私がベトナム生活をはじめて10か月が経過した頃、勤めていたカラオケ店が区画整理で取り壊されることになりました。これを機に日本に帰ることも考えたのですが、ベトナムでの暮らしが気に入った私は現地に残り、現在の店舗を構えるに至ったのです。

私はベトナムに来るまで、特に海外とつながりのある生活を送ってきたわけではありませんでした。私は高校卒業から25年間にわたり日本の芸能界に携わってきました。バブル絶頂期には芸能事務所を起業し社長まで務めさせていただきましたが、自身の経営能力のなさから入ってくるお金をことごとく失ってしまいました。その時私は「自分にはお金を追う人生は似合わないんだな」と痛感したのです。それ以降私は、お金よりも楽しく人と付き合える生き方を求めるようになりました。この生き方は、ベトナムに移住しカラオケ店を営むようになった今でも、私の大きな支えとなっています。

10代で飛び込んだ芸能の世界


英語・ベトナム語が並ぶ中「フォルテ」の看板が光る

私が芸能界に関わるようになったのは19歳の時からです。高校を卒業した私は、歌手になることを夢見てある芸能プロダクションにレッスン生として入門しました。しかし、残念ながら歌手になるという夢が叶うことはありませんでした。ところが、そんな私を芸能プロダクションがマネージャーとして拾ってくれたのです。こうした縁で私は、歌手ではなくマネージャーとして芸能界に携わるようになったのです。

右も左も分からない状態で飛び込んだ芸能界で、私は最初にある女性タレントのマネージャーを務めさせていただくことになりました。最終的に5年間その方のマネージャーをさせていただいたのですが、私はその方に芸能界のイロハをイの字から教えて頂きました。私がその後25年間にわたり芸能界で生きていけたのは、すべてこの方の教えのおかげです。いくら感謝しても感謝しきれない、私にとっての大恩人です。

マネージャーとして鍛えられ芸能界のしきたりを学んだ私は、その後レコード会社に宣伝マンとして転職することになりました。そのレコード会社は、私が歌手を目指すきっかけになった憧れのスターが所属している会社だったのです。宣伝マンとしてではありますが、ずっと憧れていたスターの方と一緒に仕事をさせていただくことができました。憧れのスターとの仕事は、本当に楽しく夢のようなひとときでした。

こうして私は芸能界でのキャリアを積んでいったのですが、30歳を迎える頃に大きなターニングポイントが訪れました。末弟が歌手としてメジャーデビューを果たしたのです。

芸能プロダクションを設立


末弟がビジュアル系ロックバンドとしてデビューし、一世を風靡する

私は3人兄弟の長男で、高校卒業以降ずっと芸能界に携わってきました。長弟(次男)は芸能とは離れた道を歩んでいましたが、末弟(三男)は私と同じく芸能の世界を目指していました。そして1989年、彼は私が叶わなかったメジャーデビューの夢を果たしたのです。

末弟はビジュアル系ロックバンドのメンバーとしてデビューしたのですが、そのバンドはデビュー直後から社会現象ともいえる程の大ヒットを記録していました。そしてそのヒットを受けて、バンドのメンバー各人がそれぞれソロ活動用の芸能プロダクションに所属するということになりました。当然末弟についても芸能プロダクションをどうするのかという話が出たのですが、その時に私が勤務していたレコード会社の社長からとんでもない話をいただいたのです。

「今の末弟になら億単位のお金を出せる。お前はこれから兄として、末弟を支えていく立場にならないといけない。このお金で芸能プロダクションを立ち上げて、末弟をプロデュースしたらどうだ」というものでした。バブル絶頂期にこんな話を貰った私はその気になってしまい、末弟のために芸能プロダクションを設立し社長に就任することを決意したのです。

芸能界の厳しさを味わう


芸能プロダクションを立ち上げるも、僅か1年ほどで経営から離れることに

レコード会社を退職して芸能プロダクションを設立した私ですが、どのようにして芸能プロダクションを経営すれば良いかさっぱり分かりませんでした。芸能界に携わって以来ずっと現場に立っていた現場大好き人間の私には、経営について全くノウハウがない状態だったのです。周りに言われるがまま自分の右腕・左腕になるスタッフを雇い芸能プロダクションをスタートさせましたが、企業経営とはそんな甘いものではありません。みるみるうちに私の周りから人が離れていき、せっかく入ってきたお金もことごとく失ってしまいました。お金を使ったのではなく、本当に失ってしまったのです。私自身の勉強不足・経営能力不足が招いたことではありますが、この時私は芸能界の厳しさを味わうことになったのです。

結局私は1年ほどで経営から離れ、長弟に事業継承をお願いすることになりました。長弟は芸能界と関わりはないものの、ニューヨークで金融機関に勤める優秀なバンカーでした。お金のことも企業経営のことも、私より遥かに詳しい立派なビジネスマンです。私は末弟とニューヨークに飛び、長弟に銀行を辞めて事業を立て直してほしいと頭を下げました。もちろんすぐに銀行を退職というわけにはいきませんでしたが、長弟は芸能プロダクション経営の話を快諾してくれ、末弟のプロデュースは長弟の経営するプロダクションで行うことになりました。

私はそれからベトナムに移住するまでの間、芸能界に残ってCD製作やラジオ番組・テレビ番組の仕事をさせていただきました。もともと人と会うのが好きな現場人間だったので、「もうこれからはお金を追い求めるのではなく、楽しく人と付き合いさせていただく仕事をやろう」と思ったのです。そうして携わった中で、とても印象に残っている仕事があります。ラジオ番組パーソナリティーの仕事です。

人に会うのが好きな性格なのに、誰もいないスタジオで収録するラジオ番組が印象に残っている。不思議に思うかもしれませんが、ラジオの仕事が印象に残っている理由はリスナーからのハガキが届くからです。番組放映の度に、段ボール箱いっぱいのハガキがスタジオに送られてくるのです。沖縄から北海道まで、日本全国から届くハガキを読んでいると、誰もいないはずのマイクの向こう側にリスナーの顔が浮かび上がってくるようになりました。私の学校の先生や、初恋の人からハガキが届いたこともありました。そんなハガキを読みながら生放送で番組を作っていくラジオパーソナリティーの仕事は、本当にやりがいのある楽しい仕事でした。

また、歌手の夢が思わぬ形で叶ったことも良い思い出です。レコード会社に勤務していた時に宣伝を担当していた歌手の方が、一緒にユニットを組んでCDを出そうと声をかけてくれたのです。その歌手の方とは私がレコード会社を退職してからも家族同然の付き合いをさせていただいており、私たち兄弟のことも良くご存知の方でした。そんな方が、私のことをイメージした曲を書くから一緒にCDを出そうと言ってくださったのです。

レコーディングには私の家族や仲間がスタジオに集まり、コーラスパートを全員で歌い、プロモーションビデオまで撮影しました。19歳で歌手を目指し、一度は夢破れて芸能界の裏方にまわりましたが、40歳にして夢が叶ったのです。本当に周りの皆さんに支えられて今の自分があるのだと実感した瞬間でした。


ベトナム・ホーチミン市に店を構えて


「フォルテ」店内のボックスは、それぞれ趣が異なる

そんな経緯で25年間にわたり芸能界に携わってきましたが、44歳の時に従兄の誘いでベトナム・ホーチミン市に移住しカラオケ店を営むようになりました。ホーチミン市で働く日本人向けのカラオケ店です。日本を離れ外国で働き、仕事終わりに「今日も疲れた~」「仕事で嫌なことがあってさ~」と言いながら一杯飲みに行く。そういう方のためのお店をオープンさせ、もうすぐ10年になります。幸運なことにオープン以来ご来店いただくお客様に支えられて、現在まで楽しく店をやらせていただいています。

何度も足を運んでくださる常連のお客様も多く、人と楽しく付き合える仕事がしたいと思っていた私にはぴったりの仕事でした。お客様とは本当に仲良くさせていただいておりますが、残念ながらその結末は悲しいものです。「ケンさん、帰任の辞令がでたんだ。日本に帰ることになっちゃったよ」という日がやってきてしまうのです。ベトナムに来て10年、毎日がそんな出会いと別れの繰り返しです。

しかしその別れも、決して悲しいものばかりではありません。私は年に1,2回帰国し千葉の実家で暮らす母との時間をとっているのですが、帰国して最初に向かう先は名古屋です。ホーチミン市でお世話になったお客様が2人、名古屋にいらっしゃるのです。凄く楽しい社長さんと大尊敬できる先輩で、私が帰国する度に宿を手配してくれ色々なところに引き回してくれるのです。せっかく日本に帰って来たんだからと美味しい食事に連れて行ってくれ、明け方まで飲みに行って、結局手配してくれた宿にはほとんど滞在しない(笑)残念ながらそのうち1人は他界してしまったのですが、こうした出会いは日本で働いていては絶対に得られなかったものだと思います。

ありがたいことに、他にも「日本に帰ってきたら連絡くれよ!」と声をかけてくださる方が日本中にいらっしゃいます。私はベトナムに来てから今日まで、そうした方々に支えられてきました。これまで出会った皆さんに育てられて、ここまでやってこられたのです。私はいつか、そんなお世話になった方たちを日本で訪れて周りたいと思っています。人との出会いに育てられてきたからこそ、これからはその出会いに恩返しをしていきたい。そして、これからも色々な方にもっともっと出会って、宝物を増やしていきたいと考えているのです。


プロフィール
出山謙一(でやま けんいち)ベトナム・ホーチミン市でカラオケ店、メンバーズ・ラウンジ「フォルテ」を経営。芸能プロダクションでのマネージャー業、レコード会社での宣伝担当を経て、ビジュアル系ロックバンド「X」(後に「X JAPAN」に改名)メンバーとしてデビューした末弟のために芸能プロダクションを設立し社長に就任。その後芸能プロダクションを長弟に継承し、CD製作、ラジオパーソナリティー、テレビ番組製作に携わる。2004年9月にベトナム・ホーチミン市に移住。2006年1月にメンバーズ・ラウンジ「フォルテ」を開業し、2016年1月で開業10周年を迎える。カラオケ店経営の傍ら、ホーチミン市在住邦人のソフトボールチーム「SAIGON ALL STARS」の監督を務めている。

ディスコグラフィー
ヒコウ少年 are 出山謙一(でやけん) & 浦田健志(ULTRA TAXI)
「くだらないジョークと果てしない夢」
「俺に夢をみせるのは君だと今心の底からまっすぐ言える」
ワンダフルフィッシュ with デヤケン
「海辺のわが家」
「Wonderful Fish」

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发表于 2017-2-7 19:27:18 |显示全部楼层
http://episodico.com/deyama-kenichi

把重点翻译一下
就是大哥是04年9月开始住越南的,06年1月开始在越南胡志明市开店,一开始只是给人家帮忙几个月,结果就越住越长索性开店定居

然后说自己自从高中毕业在异能界摸爬滚打了25年,在霓虹经济艰难期做过社长,但是自己没啥经营能力,所以到手的那点钱也都赔进去了,然后那时候他觉得自己实在不适合那种追逐金钱的生活,开始了享受人生的日子,这个想法一直到现在也在支持着他。

大哥说自己19岁高中毕业那时候开始梦想家就是做歌手,还去了制作公司做练习生,然而做歌手的梦想并没有实现。当那个时候制作公司给了他个机会去做经纪人,于是他就入了经纪人的门。啥都不懂的状态下进了这个业界,先是给某个女艺人做了几年的经纪人。
然后以这个经验,就去了唱片工作做宣传工作,因为他喜欢的明星就在这个公司,所以能一起工作他这段日子还过的蛮开心的。

重点来了,他以这样的状态迎来了30岁,也迎来了自己人生的转折点,那就是他的小弟主流出道了。

他是他家三兄弟的长男,高中毕业之后就在异能界混了,他的大弟弟就是家里的次男,走上了和异能界完全没关系的道路,而他的小弟,家里的三男和他一样有着进入异能界的目标。并且1989年,他小弟就实现了原本他的梦想,正式出道了。
他小弟是视觉系乐队的成员,那个乐队正式出道之后立刻就成为了一种社会现象,如此这般的有人气。就因为这么卖座,所以乐队各个成员都成立了自己solo用的制作公司。当然他小弟最终也是提出了自己的制作是不是也该搞起来了。
那个时候他任职的唱片公司的老板就问了他。

问他说,你小弟现在身价可是以亿为单位的,这从今以后作为大哥也必须要支持你弟弟啊,给你投资开公司,做你小弟的制作怎么样?
因为那时候还是日本经济最糟糕的时候,所以这个话让他很心动,于是就为了他小弟开了公司坐上了社长的职位。

虽然从之前的公司退职,也成立了新公司,但是对于怎样才能在这个业界把公司经营好,他可谓是什么都不懂。对从进入这个行业以来,一直都在现场工作,最喜欢现场的他来说,对于经营那根本是,连怎么做都不知道的状态,就只能照着完全照着周围人的建议,去雇佣了自己左膀右臂的staff,就这么开始了制作公司。结果企业经营真的不是那么简单的东西,很快,周围的人就开始离开了,好不容易赚到的钱,也开始损失了。并不是说把钱用掉了,而是真的损失掉了。他说也是他学习的不够,经营能力也不足的原因造成的,这时候终于开始明白了这个行业的残酷。

结局就是他经营了一年左右就离开,只能拜托大弟弟去继续经营。他大弟弟是在跟异能界完全无关的,纽约金融机关工作的非常优秀的银行家,不管是金钱方面还是企业经营方面都是比他要精通很多的。那时候他和小弟就飞去了纽约,低头请求大弟弟能辞掉银行工作,来这边重整他们的公司事业,当然大弟弟也不是说立刻就辞了职,而是答应了他们回来经营制作公司,所以小弟的制作就交给了大弟弟来经营了。

从那时候开始到04年他去越南为止,一直还在做着CD制作,广播电视节目之类的工作。

重点翻译完毕


。。。15年出这个采访也是蛮微妙的。。。



大哥相关帖子
http://www.toshigrace.com/forum. ... hlight=%B4%F3%B8%E7
http://www.toshigrace.com/forum. ... hlight=%C7%AB%D2%BB
真是觉得当年TPC好多帖子里发的小道 还有猜测啥的慢慢的都被证明了……
我玉米饭们实在是厉害23333333333

















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发表于 2017-2-7 20:51:11 |显示全部楼层
另外出山家的男人这个头发真是令人担心,当年玉爸也是这个状态  = = ……看向玉玉

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xiehide 发表于 2017-2-7 20:51
另外出山家的男人这个头发真是令人担心,当年玉爸也是这个状态  = = ……看向玉玉

他如果用苏打水洗头的话。。也许不会。。这样otz

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发表于 2017-3-11 23:09:41 |显示全部楼层
辛苦了,多谢翻译!玉玉的头发蛮好的,发际线我假装看不到

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